2006.10.01
DT DESIGN AWARDS 2006 募集要項を発表しました。

 
 


 
「特殊と普遍」/その解説  by 黒川雅之

2.思想としての普遍・・・日本の秩序観に潜む普遍の思想と世界思想へのヒント

日本人は長い間、素朴な自然観と自然主義とも言うべき生活思想を持ち続けて来た。日本人は自然を人間と対立するものとは思っていない。こんなに自然は残酷に災害をもたらしているのに、それでも自然は対立する相手と考えるより先にどう融和するかを考えている。災害で死ぬことがあってもそれもよしとするのである。四季の移り変わりを歓び、旬な感覚を大切にしてとにかく自然との共存を当たり前と考えている。
日本から近代思想が生まれなかったのはこんなところからだったのだろう。西洋の建築には壁が内外を仕切り、そこに空けられた窓が内外の対立的な関係をつなぐドラマティックな存在だった。
日本には壁がない。壁がないからそこにうがつ窓もない。日本の建築は柱と梁が内外を隔てることなく流動的につないでいる。庭さえも室内と同じ思想でつくられていた(「八つの日本の美意識」講談社)のである。
日本の家屋には部屋がない。あるのは柱と襖と屏風で微かに仕切られた「間」であった。茶の間、客間、寝間という「間」は部屋のようには他の空間と区切られることなくそこはかとなくつながっていた。「間」とは人がつくる「部屋」とことなり、柱や梁や描かれた図やものの周りに生まれる気配がつくる自然のままの空間である。 人間の関係もこの「間」に似ていた。人間関係は「人への気遣い」でつながり、「義理や人情」が人と人の間をつないで「恥をかかないよう」に人への気遣いが人間関係をつないでいた。
ここには、自我という一人の人間の孤高な存在を現す概念は存在しないままであった。自我は近代化以後に輸入された概念であって、人は自我を必要としない程に他者によって存在し、他者と融和することで成立していた。 この感覚は自然と人間に於いても同じである。自分の存在を「仮」と考え,生々流転する宇宙の摂理の中に呑み込まれていることを歓びこそすれ、苦しむことはなかったのである。
このような秩序感に呑み込まれた人間には「自我」の概念は不要である。人々は他者との関係でしっかりと自己を知っていたし、自然との一体感のなかで自己の存在を位置づけてもいた。
このような世界観では個性という概念が現われない。自分らしい生き方を考えることはあってもそれは自然に融和した中での自分でしかない。ごく当たり前に、普遍の思想は日本人の中にあり続けてきた。自然の摂理がつくりあげるものとして普遍はあった。「素のまま」を好み、「素材のありのまま」を好んで、日本人の普遍の思想は自然の摂理そのままの、動物のような身体感覚そのままとして納得していた。
ここでは特殊や個性もなければ普遍という概念も不要であった。自我が問題にされるのも、個性や普遍性が問題にされるのも近代以後のことなのである。そして今、この日本の秩序感は現代の世界の思想にヒントを与えている。