2006.10.01
DT DESIGN AWARDS 2006 募集要項を発表しました。

 
 


 
「特殊と普遍」/その解説  by 黒川雅之

5.自己に戻って普遍を探す・・・他者を巻き込む自己表現

どう普遍的デザインを探すか、その方法を探し出さなくてはならない。日本の美意識では「自然に対して謙虚に」することで「自然こそ正しいのだから」、「出来るだけ手を加えないことで多くの人々が納得する美しいもの」が発見できる。要するに「素のままがいい」と考えている。一つはこれが普遍を発見する方法を示唆している。
それはそのまま、現代のものづくりの姿勢に反映させればいい。日本の思想では、個性は始めから否定されているのであり、表現はその否定のままに見えてくる表現が日本の表現であった。「世阿弥の<秘すれば花>も観る人の主体性を重視することから表現を控えてこそ華麗に表現される」のでありここには読者(見る者)の主体性を重視した思想があった。これは「物を描かずその余白や間を描くこと」で人々の参加できる美を実現するのと同じ方法である。見る側,受け取る側の想像力を刺激することで表現を充実させようとするのである。表現を押さえることで表現を完成させる。
これは決して表現をしないこと、ノンデザインや個性の否定ではない。表現のなかに他者の想像力を巻き込む姿勢と方法が含まれている。表現の中に他者を取り込むことであって、決して個性の否定ではない。
日本人の馴染んで来た表現の方法はこのようにして普遍性の発見を、決して個別性の否定から始めてはいないのである。
自分の思想を表現していてもそれは決してそのまま人に伝わっていないことを知るべきである。個性を殺しても生かしてもその個性は人にそのまま受け入れられてはいないことを知るべきである。このことは個性を殺しても生かしても所詮同じだということである。日本人の手口のように、それを知って他者の想像力を巻き込む仕掛をする凄さはここにある。
外山滋比古はこう言っている。「小説家が書いた小説を読者は決して小説家が描いたようには読んでくれない。それは悲しいことではない。読者は自分の想像力で自分の読み方で読んだだけである。このことは読者が小説の創作に参加したと考えればいい」と。きれいな夕日を見て恋人たちがその美しさに感動したとする。それでも恋する二人が同じ感動を共有したわけではない。それぞれはそれぞれの人生体験からその夕日に感動したにすぎないのであって、その感動は同じではない。コミュニケーションとは物を渡すように、そのまま伝わることではない。何を伝えてもその相手の心が刺激されてその人らしく描くことになるだけである。コミュニケーションとは本質的に非連続なのである。
このことから一人の人が普遍を考えること自体、論理的に矛盾している。考えるのは自分の感じたものだけだからである。